2020年06月30日

2020年5月、6月のリモートドラマ

 
2020年の5月、6月にいくつかのリモートドラマが制作されました。

共通しているのは、
2020年の4月〜5月に短期間で制作されていること。

このタイミングで作られたことに意味が残るかもしれない作品の覚書

■今だから新作ドラマ作ってみました
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E3%81%A0%E3%81%8B%E3%82%89%E3%80%81%E6%96%B0%E4%BD%9C%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E%E4%BD%9C%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%BF%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F








■2020年 五月の恋
https://ja.wikipedia.org/wiki/2020%E5%B9%B4_%E4%BA%94%E6%9C%88%E3%81%AE%E6%81%8B



携帯電話は本当に繋ぎあって、せえので一緒に演技したのかな、
それにしても素晴らしい。


■ホーム・ノット・アローン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%B3



■リモートドラマ Living
https://ja.wikipedia.org/wiki/Living





第3話を観た後で、
出演している俳優さんが、
ドラマと同じ部屋からyoutube配信していたのを見ました。

作り物であるドラマと
youtuber配信がこんなに接近することがあるんだと
とても不思議な感覚を持ちました。




下手な作り物は、仲里依紗の配信に負けているのでは?


■世界は3で出来ている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AF3%E3%81%A7%E5%87%BA%E6%9D%A5%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B

 このドラマの作り手は、
 世界は三密でできている、と
 言いたかったのか、どうか。

「忘れてくんだろうなあ、きっと
「忘れても、思い出すよ

■ダブルブッキング
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0_(%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)



彩とマヤの家(部屋)の場所、住所のことがちょっとわからなかったけど、
読後感がよくなかったので、細かく観返そうとは思わなかった・笑。

( このドラマの感想とは別の話になりますが、
  三谷幸喜が自分は絶対にやらないでおこうと思っている話のパターンがあるのではないか、
  とふと思いました。 )

■不要不急の銀河

このドラマは、
5月6月に放送されたいわゆるリモートドラマとは
立ち位置が異なるのだろうと思う。

「俺たちの人生は不要不急だったのかな」
「不要不急でしょう。不要不急以外の何物でもないじゃない」

ドラマの作り手が自分たちは、不要不急だけれど、
それでも、ドラマ作りを続けていくという意思表明。








これらの作品に対する、
ドラマの作り方に関するいろいろな考察があるように思いますが、
それよりも、
これらのドラマを通じて、現実の問題についていろいろ考えさせられました。


今、私が経験していることは、なんだろう。
確かに、歴史的な出来事を実体験しているという感触があります。

しかし、これまで映画やドラマで観た、
戦争や震災・災害の物語とは何か違う。

これらのいわゆるリモートドラマでは、
人間は、分断され部屋に閉じこもり、
戦場のような修羅場やパニックは別の場所で起こっている。

でも、何が起こっているのか、
ディスプレイを通じて知っている。

誰もが知っているコメディアンが
気づいたらこの世を去り骨になっていて、
しかもそれは他人事ではない、とか。

感染症の物語は、
人間の歴史に繰り返し現れていたことのようだ、と
今さらに自覚したけど、
今回は、
それらとも何か違う様相があるようにも感じる。

ワクチンさえ開発されれば、
あるいは、
もう一度、同じことが起こっても乗り切れる
仕組みや制度を構築しておけば、
もう大丈夫なのか、
いや、
世の中はこれをきっかけに確実に何か変わっていくのか。

これから、映画やドラマを通じてもそれを考えさせられるのかもしれない。



posted by inatt at 14:50| Comment(0) | 感想など・TVドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月21日

【映画】 さびしんぼう 1985年







この映画で語りたいことのひとつはラストシーンです。

どんなシーンかという説明を端折って、
最後のモノローグを全部引用させてください。

「さて、そして時がたち、いつか僕は大人である。

 親父殿にそっくりの、
 何を考えているのかわからない無表情さも身についた。
 毎日お経を読んで過ごす僕の傍らには、
 なぜだか百合子さんにそっくりのひとりの女性が、
 もうひとつの横顔を見せて座っている。
 そんな日があるとすれば、
 そこには必ずや、あの甘美な別れの曲のメロディが
 今もまた流れているに違いない。

 そんな光景を皆さんはなんとお考えになるだろうか。

 親愛なるフレデリックショパンさんよ、
 あなたがあの痛ましくも輝かしい19世紀の青春に、
 命を賭けて燃やした情熱の炎は、
 その肉体が滅んでしまった遠い今となってもなおさらに、
 僕らの感情を激しくゆさぶらないではいない

 思えばこれこそが、
 あなたが永遠に願った、
 真実の恋の勝利というものではなかっただろうか。

 さびしんぼうよ、いつまでも。
 おおい、さびしんぼう。」



「そんな光景」を自分はなんと考えるのか。
「思えばこれこそが」の「これ」とは何なのか。

観るたびにそんなことなどに思いを馳せます。




20070101記

DVDでエンディングロールを変更していると聞いたので、
興味が涌き、観なおしました。
(オリジナルも観ることができます。)

要は、エンディングロールの富田靖子の唄を止めているわけですが、
両方観た感想は、
どちらでも気にはなりませんでした。

私がこの映画を公開時に観たときも、
「時をかける少女」を観た後ですから、
富田靖子が歌いだしても驚きはしませんでした。

なぜ富田靖子の歌をはずすのか、

あえて理由を探すと、
1.いかにもの80年代アレンジが気にいらない
2.別れの曲につけた詞が本編と関係ないので気にいらない
3.最後に富田靖子が「さびしんぼう」と連呼するのが嫌。

ということでしょうか。
でも、そうなら、ホントは、
大林監督は、時をかける少女のエンディングロールも
変えたいと思っているのかな、ということが知りたい。

または、とりわけ、さびしんぼうに思いいれがあって、
多かれ少なかれビジネス上の柵に関係する部分を
排除したかったのでしょうか。

しかし、どんな芸術作品にも、そういう部分があるわけで、
作って公開して、その、あとからあとから、
変えたいところを変えていたらキリがないと思いますけど。
潔くあきらめるのが男らしいような気もしますし、
この作品に大林宣彦監督が特別な想いがあるということかも
しれません。




20200517追記

「今夜、ロマンス劇場で」を観て、
今さらに気づいたのですが、
#さびしんぼう が
白と茶色の服であることには
必然性があるのだと気づきました・笑。

赤や青やピンクを身につけていたらおかしい。




20200620追記

またも、今さらの気づきですが、
冒頭の「別れの曲」が、
プロが上等なピアノで音響の良いところで芸術的に演奏したようなものではないことに
気づいてちょっと感動しました。

BS12トゥエルビで放送されたエンディングは公開時と同じものでした。
Amazon Prime Videoも同じく富田靖子が歌うものでした。
DVDのエンディングは、
DVD制作時に大林宣彦監督が望んでそのようにしたということですね。



 
サウンドトラックは、高額なプレミアムがついていますが、
Amazonでは各曲30秒ほど視聴ができますので、
十分に雰囲気を味わうことができます・笑



posted by inatt at 08:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 感想など・映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする