2009年10月20日
【小説】 坂の上の雲 司馬遼太郎
まず、題名が好い。
雲を見つめてひたすら坂を登った。
たくさんの犠牲を払いながら、ひたすらそれを目指して。
しかし、坂を登りきっても雲には手が届かない。
登っている間は、
そんなこと気づかなかった。考えもしなかった。
雲に手が届かないどころか、
行く先には下り坂だけが待っていた。
ふと、思う。
登っているときは幸せだったな。
あんなに悲惨な行程だったはずなのに。
「坂の上の雲」は私が最も好きな司馬遼太郎作品です。
この感想をいつか書きたいと思いながら
手をつけることがありませんでしたが、
NHKでのドラマ放送開始を目前に、いろんな特集本も読んだ今、
書きとめておくことにしました。
読み始めたとき戸惑いました。
「国盗り物語」や「竜馬がゆく」での歴史上の主人公たちの
生き生きとした活躍に親しんできましたが、
この物語では今の我々に近しい複数の職業人が描かれていたからです。
しかし読み進むにつれて、
この物語の主人公は、人でなく、国なのだなと思うようになりました。
近代日本という国のその青春時代の物語。
誰もが予想しなかった輝かしい成果の物語。
しかし、哀れなほど健気で、無我夢中で、
輝かしくも、とても悲惨な出来事に満ちた物語。
気恥ずかしい言い方ですが、
青春とはそういうものではないでしょうか。
ただの成功物語でなく、ただの時代批評の物語でなく、
稀有な青春小説だから、こんなに惹きつけられるのでしょう。
(初稿 20091020)
それにしても、司馬遼太郎は何故昭和を描かなかったのだろう。
嫌いだから、とは理由としては不完全だ。
「坂の上の雲」で明治時代を描きながら、
裏テーマのように昭和に対する考えもあちこちで語っており、
「だから、ほら、昭和は、・・・わかるでしょう?」
ということなのかもしれない。
でも、中年になってから、
「君の若いときはよかったな、でも、中年になった今はどうも・・・な。」
と言われて素直に頷ける人は多くないはずだ。
若いときと今は非連続でなく、
若いときが土台となって今があるのだから、
土台と上物を別々に見て、
一方を肯定し、一方を否定されても納得しがたい。
成熟しているが故の進歩もあるが、
若い頃の何かを失った、
脂ぎったようななにか嫌らしいものも身についてしまった、
近代日本の中年時代を描いた、
司馬遼太郎の物語を読んでみたかった。
坂の上の雲の登場人物
http://www.sakanouenokumo.com/jinbutu0.htm
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