2011年04月30日
20110429 【演劇】 国民の映画
三谷幸喜作演出の「国民の映画」、神奈川芸術劇場に観に行きました。
観終わったあと、劇場を出て、
このお芝居を観た人たちが、おそらく頭の中で、
あまりにも重たいエンディングを受け止めながら、
ゴールデンウィークを中華街で楽しんでいる人たちのなかに紛れていくことに、
とても不思議な感覚を覚えました。
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感想としては、
起こる出来事が少ない上に、
転回点となるポイントにも、
あらかじめ気づいてしまうので、
演じる人たちにとって難しいお芝居なのだろうと思いました。
内容は、
「国家」「映画」「狂気」とか、そういうものとは、
関係がないと思いました。
「ナチス」だから「狂気」?
では、「原発」なら?
( このお話の構造は、「原発」でも構築できそうですね? )
そして、
自分のことに結びついて感じられれば、
とても心に痛いところに当たるものを含むお話だと、
感じました。
だからこそ、
屋敷を去っていく人たちの行動にも、
少し納得感がないように思えた部分がありました。
執事の秘密の暴露の内容が重いことは確かですが、
それだけであんなに急に皆の態度が変わるとは。
たとえば、
ヤニングスの場合、
権力に阿ることにより映画を作ろうとすることより、
一人の執事の運命に憤ってみせることのほうが、
私にとって偽善的に感じる部分がありました。
ヤニングスは、
自分を恥じたから、屋敷から出ていきたくなった、
のなら、私は納得できます。
そんなわけで、
もっともっといろんな演出がありうるような気がしました。
また、マグダの最後の台詞。
さりげなくも、悪魔的な、
観る人に大きな衝撃を与える台詞ですが、
それがゆえに、
演じる人自身の心にも相応の傷を与えるのではないかと
私には思えました。
あれを演劇として効果的に上手に喋ることが可能なのでしょうか。
しかも、毎日何日間にもわたり、それを演じ続けることができるとしたら、
それこそ、悪魔的なことではないでしょうか。
そのような、
いろんなことを考えさせられました。
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