20190811記
「なぜ戦争なんか始めたんですか」
「いつのまにか、そんな雰囲気になっていたのです」
そんなやりとりをドラマなどで何度か観た記憶がありますが、
いつのまにか、ってどういうこと?
雰囲気って、曖昧すぎる、と
今まで、腹に落ちた思いをしたことがありませんでした。
ですが、
ある書物の主張から、
「ああ、そういうこともあるかもしれないんだ」と
納得することがありました。
【お寿司の数え方 お寿司の一貫とは】
2018年7月にふとしたことから、
2013年に発行された、
「ホリイのずんずん調査 かつて誰も調べなかった100の謎」
を入手して読んでいたところ、
とある項目が目に留まりました。
今の私は、
鮨は1貫と数えるものだと思っているし、
昔からそう数えられていたのだろうと考えていました。
バラエティ番組などで、
1貫が2個なのか1個なのか、
という話題がとりあげられるということも知っています。
ところが、
「寿司を「1カン」と数えだしたのは平成に入ってからである」
というのです。
これが正しいとすれば、
物心がついた以後にできた常識なのに、
私は知らぬ間に自分の常識を塗り替えていた
ということになるのですが、
私にはそんな自覚は一切ないのです。
( 1貫は2個か1個か、とテレビに言われて、
そうだなあ、両方あるなあ、
と感心した記憶はあります・笑 )
( 物心ついてから、
ナイフ・フォークでライスを食べるときは、
フォークの背にのせるって見聞きしたけど、
のちに、それは違うという言説も読んだ、
というような、
最初に教わったことが後で訂正されたという
記憶はいくつかあるのですけど )
「ホリイのずんずん調査〜」では、調査の結果を
・かつて寿司は「カン」とは呼ばれていなかった。
・1983年から2009年までの雑誌で、「寿司」とタイトルに張っている記事を調べると、
80年代後期に散見するもののごく一部
1991年から増えだし90年代を通して広まり、
2000年代に定着した。
2003年にすべての雑誌でカン表記。
と示しています。
なぜ、そうなったかについて、筆者は、
・90年代の半ばに通っていた寿司屋の大将に
「ホリイちゃん、寿司の数え方なんだけど、
なんか、かっこいい呼び方ないかな、
1つ2つ、とか、1個2個じゃなくて、
最近、カンなんてことも言われてるんだけど、どうだろう」
と相談されたことがあった。
・店舗も客も、寿司を何か特別な呼び方をしたい、という欲求があったからだ。
・寿司屋が広く開かれたから、
せめてどこかに特別な部分を残したいという意志によって、
不思議な助数詞が導入されたのだ。
・「寿司のカン呼ばわり」は、うさんくさくて受け入れがたい。
自然の流れで出てきた呼び方ではなく、極めて意図的で、人為的だからだ。
と主張しています。
雑誌表記の調査に基づいた意見であり、説得力を感じました。
そういう経緯であれば、
1貫は、2個なのか1個なのか、
カンの漢字表記「貫」の由来は何か、
いろいろはっきりしないことも納得できる。
特定の誰かが意図して始めたことではないが、
複数の人が同じことを広め、
世の中の人が多くそれを受け入れると、
大昔からそうであったことのように、
なることがあること、
特定の政治家やメディアが、
特定の思想に基づいて広めた、
というような分かりやすい経緯でないこと、
何か潜在的な世の中の欲求のようなものが、
広める人、受け入れる人に共有されているらしいこと、
また、人がなんとなく当たり前に思っていることが、
当たり前ではないことを示すには、
事実に基づく実証的な作業が必要であるということも分かりました。
また、
世の中でなんとなく当たり前と思っていることに
実証的に疑念を呈した主張が
メジャーなところから出版されているのに、
それが広まらないこともあることを知りました。
「なぜ戦争なんか始めたんですか」
「いつのまにか、そんなことになっていたのです」
20200705追記
また、世の中が変わるには、
そんなに多くの賛同は必要でなく、
一部の人の同意と、
一部の人の黙認・追認があればよく、
自分が望まない結果を
知らないうちに招かないためには、
普段の行動や意思表明も
重要だと思うようになりました。
・「投票しない」という行動は自分の望まない未来を作り出すことに加担することになる可能性がある。
20200807追記
【何故戦争を止めることができなかったの】
・国民のうち、何割がアベノマスクを望んだの?
私たちが国の運営を任せた人たちがやったこと。
岩波書店・世界・202302号・p23・阪田雅裕・憲法九条の死
国家安全保障戦略において「反撃能力」を自衛隊に保有させるとしていることについて、
憲法九条が「その歴史的な使命を終えていま、その姿を消そうとしている。」と述べられている。
20240101追記
■関係あるようなないような紅白歌合戦の話
NHK紅白歌合戦って、
有吉の毒がすべて漂白される、とか、
YOASOBIの「アイドル」を、
あの歌詞なのに、たくさんのアイドルを集めてパフォーマンスさせる、とか、
ギネス認定員がついミスを見逃してしまう、とか、
( 前の話ですが、 )
誰も強要していないのに、
見えない圧力から、
やりたくないのに、
寄ってくるカメラにあわせて、恋ダンスをすることになる、新垣結衣、
とか、
特別な雰囲気が発生して、
現実化してしまう、ことの実例として、
このエントリーに覚書しました。
20240218追記
ドラマ「不適切にもほどがある!」で、
1980年半ばと2024年の比較が表現されていますが、
最近のコンプラ重視とかZ世代の云々とは、
この5年10年の話で、
やはり、それくらいで世の中の雰囲気って変わるものなのだ、
という思いをもっています。
■関係あるようなないようなコロナの話(20240616)
コロナ前、私は息苦しいのが苦手で、
強制されない限り、マスクをすることはありませんでしたし、
手洗いもそんなに熱心にしていませんでした。
コロナの世になり、
2020年の半ば頃、ようやっと、
マスクをして外出するのに慣れたような記憶があります。
しかし、2020年4月以降、
私は、外出するとき、電車のなか、2024年6月の今も、
ずっとマスクをしています。
家から150歩先にある、コンビニに行くときも、
必ずマスクをしていましたが、
2023年くらいからは、
普段使いのマスクを消費するほどとは考えなくなって、
布マスクで行くようになり、
2024年4月頃からは、マスクをしなくなりました。
この変遷には、
科学的な根拠も、
主観的にも理屈はなく、
マスクをするもしないも、
なんとなく、経緯的、習慣的、個人的感覚のもと、
行われていると感じます。
また、それでも、4年間ものあいだ、
コンビニにちょっと行くにもマスクをしていた、
という習慣も、
なんとなく、しなくなり、
時が経てば忘れらるような出来事になる。
しかし、後の世からみると、
4年もの長きのあいだ、
マスクをしていた、
ということを不思議がられることがあるのかも
しれない。
posted by inatt at 06:52|
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